桂岩寺の歴史

 桂岩寺は浄土宗開祖・法然上人の教えを受け継ぐ浄土宗西山深草派の寺院です。南北朝時代の領主・戸ヶ崎次郎義宗が照璟光山慧珉上人に深く帰依し、慧珉上人に44石の荘園を寄付して一寺を創建したことに始まります。義宗はさらに永く慧珉上人を当地に留めるべく、正平五年(1350)に本堂や庫裡等を新築して当時32歳の慧珉上人を当山の開山として定めました。

 義宗は明徳四年(1393)、道目記の合戦で戦死し、当山に葬られました。慧珉上人は義宗を「源徳院殿慶巌善公大居士」と号しました。義宗の戦死の翌日、夫人の富波姫は夫を慕って自決したとも、またあるいは、長刀の名手として勇ましく戦い、30を超える首級をあげて戦死したとも伝えられています。慧珉上人は姫を「雷光院殿玉岩清心太禅定尼」と号し、同じく当山に埋葬しました。慧珉上人は応永五年(1398)に81才で遷化されました。

 その後、当山第四代の住職・尊阿照翁等意上人は高徳の誉れ高く、多くの有力者が帰依したと言われています。中でも矢田松平家の松平甚六康忠公は、等意上人に深く帰依され、当山を菩提寺と定め、天文六年(1537)に本堂を始めとして、殿舎を再建されました。康忠公は天文九年(1540)六月、安祥の合戦にて戦死され当山に葬られました。位牌に『孝子、松平甚太郎家忠建之』とあり、「天明院殿月峰珠光大居士」と号されます。これにより、当山は徳川幕府より寺領・御朱印35石9斗を下付され、将軍家代々の逝去に際して納経および拝礼を仰せつけられました。

 慶長年間(1600年前後)に描かれた古絵図によれば、当山は境内が12,000坪、2ヵ寺の塔頭寺院を含み、浄土宗西山深草派三河十二本寺の一つとして、浄土念仏道場の拠点として宗門ばかりではなく、この地方におきましても重きをなしてまいりました。

 とはいえ、度重なる台風や地震などの自然災害、飢饉や経済破綻、また、明治時代の神仏分離・廃仏毀釈や戦後の農地解放など時代の荒波により、必ずしも常に安穏なものではありませんでした。しかし、そのたびにその時代の住職、また檀信徒・擁護衆の皆様の御尽力によって乗り越え、念仏道場としての威信と法脈の灯火を現在に明々と伝えております。

宝永五年(1708)に描かれた境内絵図

 なお、当山は慧珉上人の入滅後200年頃までは「慶巖寺」と号しておりましたが、慶長七年(1602)、第九代及翁祖玄上人の頃より寺号を「桂岩寺」と改めております。『古今万宝雑記』によりますと「簡略化のため」と記されております。