檀信徒の心得便利帳

仏壇・仏具

お仏壇は宗派によって造りや飾り方が違います。
普通、内部は三段になっていて最上段の中央に御本尊を安置いたします。浄土宗各派では本尊に「阿弥陀如来」、脇士として向かって右に「観音菩薩」、左に「勢至菩薩」、または右に「善導大師」、左に「法然上人」をおまつりいたします。阿弥陀如来の阿弥陀とは無量寿、無量光の意味で、西方極楽浄土の教主として、今、 現に説法ましまして衆生済度の大活動をされている仏さまです。私たちのおまつりする阿弥陀如来の立像の場合は、左の御手は下げ、右の御手はひじで上に折り曲げて掌を前に向けられ、親指と人差指の指頭を接して印を結ばれています。上品下生の来迎のお姿といいます。

 

阿弥陀如来には四十八の誓願があり、その一つに「わが本願を信じて名号を称えるものは極楽浄土へ往生することが出来る」として、南無阿弥陀仏の名号を称えることをすすめられています。二段目に御先祖のお位牌を置きます。向かって右の奥が最上位で次が左になります。

お香

昔から仏教行事、仏の回向には香をたくことが欠かせないものとなっていますが、このように香が仏教に使われ始めた起源を考えますと、古来インドでは暑くて人々は汗や体臭、死臭に悩まされ、その臭いを消すために、その土地で産する香木を煮て香湯、香水を作ったり細粉して塗香として体に塗ったりしました。また、原木のまま火にくべて悪臭を払ったのです。このように単に悪臭を除くということから次第に高貴な人のおもてなし、さらに仏さまの供養、仏前を浄めるものとして使われるようになってきたのです。

 

わが国では、香は仏教の伝来と共に伝わり、初めは「供香」という名称で仏さまの供養に使われていましたが、やがて民間にもその香りを楽しむ大が出てきて、それが香道と称せられ、華道、茶道と共に多くの人々に親しまれました。

 

現在、香の種類としては、香木では沈香(じんこう)、白檀(びゃくだん)等があり、これらを細かく混合した「抹香」、さらにこれを粉状にして練り合わせた「練香」、またそれを細い棒状にした「線香」等があります。このように香の種類はたくさんありますが、香をたくということは、そのすばらしい香りと共に仏さまを招来し、供養し、身心を清浄にすることなのです。

華(花)

香華といいますように、華(草木の花)は、お香と同じく大切な供具の一つです。 仏さまにこれをささげ(献花:けんか)、花びらを散らして(散花:さんか)供養いたします。これは実にすばらしいことです。インドにも華麗な花がたくさんあったのでしょう。現代で は、四季を問わず色とりどりの花がありますから、時折々にすてきな花を選び、また 自分が作った庭に咲く一輪の花を捧げ、心のこもった供養をしましょう。(ちなみに花を選ぶ際、棘のあるものや毒々しいものは避けるべきと言われております。)

 

仏さまにお供えする物の中で、お花がいちばん純粋だと言われる方がありますが、それは、後で誰もお下がりを食べたりしないからだそうです。まごころを込めて仏さまに花を捧げ、朝に夕に仏壇に両手を合わせるとき、仏さまに捧げたその花の姿がそっと私たちの方に向けられている事を感じます。これは、まさに花回向です。

 

お花を捧げる花立ては、五具足(花立て一対・灯台一対・香炉一個)のときは、香炉を中央に、その左右に灯台、そして一番外側左右に花立てをおきます。三具足のときは、香炉を中央にして向かって右に灯台一個、左に花立て一個をおきます。花は長い月日をかけて育ち、開くことから、知恵を表わしているともいわれ、とりわけ青蓮華・紅蓮華・白蓮華・大白蓮華などは、『無量寿経』(上)において、極楽浄土の荘厳とも説かれています。花開くこと多ければそれがそのまま、極楽浄土に続くようです。

灯明(とうみょう)

お仏壇に、お灯明(おひかり)を上げるということは、単にみ仏のおいでになる場 所を明るくする供養の心のあらわれだけではありません。光はすべての暗黒をひらくという仏さまの偉大なる智慧の光、慈悲の光をたたえるという意味があります。さらにいえば、六波羅蜜の智慧行であり、根本無明、つまりいつも暗黒の迷いの世に生きている人間世界に真実の光をかかげるものといわれます。

 

灯明は、灯龍や燭台(ローソク立て)、または輪灯といって上から油皿の器具を吊した仏具によってかかげます。灯龍や輪灯はやむをえませんが、最近では燭台にまで豆電球を配し、スイッチーつでともる電気仕掛けになっているものがあります。しかしこれはあまり感心しません。仏さまのあかりは単なる照明ではなく、浄火をともすという意味があるからです。燭台には、なるべくローソクを用いたいものです。ローソクは、和蝋にこしたことはありません。点火してしばらくすると、炎が躍動するように揺れ、仏壇が華やいだ雰囲気になるからです。一般家庭では、ほとんどが普通の洋蝋を使用しています。

 

消火のときは、真ちゅう製の香箸(こうばし)で芯をはさみ切って消すか、小型のうちわで消します。目で吹いて消すことは、つつしまねばなりません。

言うまでもありませんが、火の取り扱いには充分ご注意下さい。
特に和蝋は消したつもりでもまだ燻っている場合があります。消火は確実にご確認下さい。

霊供膳(りょうぐぜん)

飯食供養には、仏供、霊膳供、精進供の三つがあります。仏供とは仏器にご飯を盛って供えることで、日常、各家庭においてなされているお仏飯です。霊膳供とは、いわゆる霊供膳のことで、仏法僧の三宝に供養するものです。ですから、当然精進料理でなければなりません。この霊供膳は、仏具屋さんでは小型の本膳のような一式で売られています。

 

 

お膳の並べ方は私たちがお膳で頂くときと同じように、一番手前に箸、左手前にご飯のお椀、その右が汁、まん中に香の物、奥の左がなまもの、和え物などのお壷、その右が煮物などを盛るお平を置きます。お供えするときは、お膳を一回転させて箸を向こう側(仏さま側)になるようにします。
精進供というのは、蓬莱、乾物(山のもの、里のもの、海のもの)などを三方に盛って供養することです。

 

さて、なぜこうした飯食を供養するのかと申しますと、

(1)報恩感謝の意から仏さまに奉って供養する。
(2)無縁に施す。
(3)自分が食事をするに当たってお初を供える。

といったことからです。

 

お供えする時間は正午までが良いのですが、今日の生活習慣の中では、それもまたむずかしいと思われます。要はお供えする側の心がけ、気持ちが一番犬切なことです。

木魚

わたしたちの宗派では読経や念仏を称える時に、拍子を整えるために木魚を打ちます。ときたま寺の玄関等で魚の形をした木製の吊りものを見ることがありますが、これを「魚板」といいます。木魚は、その魚板が変化したものです。魚は昼夜目を閉じることがないことから、「常に目覚めて精進せよ」ということで、その形を木に刻んで用いているのです。今、私たちの使っている木魚は一身に二つの龍頭を持ったものが多く、龍頭魚身は「魚化して龍となる」、の故事により「凡より聖に至る」の意味を表わしています。

 

木魚は中国で作られたものであり、日本で使われるようになったのは十七世紀(承応年間)に隠元禅師が中国から伝来したことに始まります。

 

木魚の打ち方は、普通、合打ちと言って、読経の時は字と字の間に打つようにします。これは木魚によってお経を濁らせることなく、正確に丁寧にお経を唱えるために合打ちをするのです。慣れないうちは頭打ちといい、どうしても字の頭に木魚を打ってしまいますが、初めはゆっくりとお経を唱え、合打ちをするよう心がけましょう。

 

木魚にも大小いろいろあり、静寂なお寺の本堂から聞こえる大木魚の音は人の心をおだやかにしてくれます。

数珠

数珠は私たちに最も身近な法具の一つであり、一般に広く普及しているものです。
しかし、仏さまを拝む時、なぜ数珠を手にかけるのでしょう。数珠は、百八個の珠をより糸でつないだもので、人間の持っている欲望や怒りやねたみなど百八のけがれた煩悩をお念仏を称えて断つために、手にかけるのです。また、お念仏を称えながら数珠を繰って、称えたお念仏の回数を計算するために用います。数珠の数は、百八を基本として、その半分の五十四、三分の一の三十六、四分の一の二十七個の珠をつないだものがあります。数珠の種類は宗派によって異なりますが、浄土宗系統では二連(輪違い)の数珠が多く用いられます。二連の数珠は、日課念仏用の繰り念珠です。なお在家用としては、一連の片手数珠が多く用いられています。

 

数珠を用いるときの注意として、畳の上に直接に置いたり、人に投げて渡すようなことは絶対にさけましょう。仏さまを扱うのと同じように、常に大切に扱うように心がけたいものです。

塔婆(とうば)

墓地には、板木の塔婆がたくさん建っています。これは故人を供養する心を込めた便りなのです。塔婆とは、梵語で塔を意味する「ストゥーパ」の音写で、漢字の卒塔婆を縮めたものです。

 

ストゥーパは、もともとインドでは仏舎利(釈迦の遺骨)を納めるためにつくられた仏塔で、釈迦の人滅後、舎利裕を建て供養したことに始まります。
古代インドでは土まんじゅう型(伏鉢)であったものが次第に変化し、三重塔や五重塔等になったりして発展しました。今日、塔婆といわれるものは、方・円・三角・半月・宝珠の五輪を重ねた石づくりの五輪塔を細長い本にかたどった角塔婆と、板にかたどった板塔婆に簡略化されたものがあります。
五輪は宇宙を構成する五つの要素(地・水・火・風・空)を表わします。人が亡くなると、この五大元素に肉体が還元されることを意味しているからです。

 

『無量寿経』には「起立場像」(塔や仏像を建てること)に功徳があるといわれます。インドでは、アショーカ王が仏舎利を分配し、全インドに八万四千の塔を建てたといわれます。

 

板塔婆は、水向けをしたりお経の一節を記して川に流したりすることから、「水塔婆」「経木塔婆」ともいいます。現在では、故人の追善供養のために経文・梵字・戒名等を書いて菩提を弔います。
塔婆は、墓前に供する追善供養の追塔で、塔婆そのものが仏の姿ですから功徳のあるものなのです。仏日などにしたためて、心を込めて読経回向したいものです。

 

仏壇・仏具
お仏壇は宗派によって造りや飾り方が違います。
普通、内部は三段になっていて最上段の中央に御本尊を安置いたします。浄土宗各派では本尊に「阿弥陀如来」、脇士として向かって右に「観音菩薩」、左に「勢至菩薩」、または右に「善導大師」、左に「法然上人」をおまつりいたします。阿弥陀如来の阿弥陀とは無量寿、無量光の意味で、西方極楽浄土の教主として、今、 現に説法ましまして衆生済度の大活動をされている仏さまです。私たちのおまつりする阿弥陀如来の立像の場合は、左の御手は下げ、右の御手はひじで上に折り曲げて掌を前に向けられ、親指と人差指の指頭を接して印を結ばれています。上品下生の来迎のお姿といいます。 

阿弥陀如来には四十八の誓願があり、その一つに「わが本願を信じて名号を称えるものは極楽浄土へ往生することが出来る」として、南無阿弥陀仏の名号を称えることをすすめられています。二段目に御先祖のお位牌を置きます。向かって右の奥が最上位で次が左になります。

お香
昔から仏教行事、仏の回向には香をたくことが欠かせないものとなっていますが、このように香が仏教に使われ始めた起源を考えますと、古来インドでは暑くて人々は汗や体臭、死臭に悩まされ、その臭いを消すために、その土地で産する香木を煮て香湯、香水を作ったり細粉して塗香として体に塗ったりしました。また、原木のまま火にくべて悪臭を払ったのです。このように単に悪臭を除くということから次第に高貴な人のおもてなし、さらに仏さまの供養、仏前を浄めるものとして使われるようになってきたのです。

 

わが国では、香は仏教の伝来と共に伝わり、初めは「供香」という名称で仏さまの供養に使われていましたが、やがて民間にもその香りを楽しむ大が出てきて、それが香道と称せられ、華道、茶道と共に多くの人々に親しまれました。

 

現在、香の種類としては、香木では沈香(じんこう)、白檀(びゃくだん)等があり、これらを細かく混合した「抹香」、さらにこれを粉状にして練り合わせた「練香」、またそれを細い棒状にした「線香」等があります。このように香の種類はたくさんありますが、香をたくということは、そのすばらしい香りと共に仏さまを招来し、供養し、身心を清浄にすることなのです。

華(花)
香華といいますように、華(草木の花)は、お香と同じく大切な供具の一つです。 仏さまにこれをささげ(献花:けんか)、花びらを散らして(散花:さんか)供養いたします。これは実にすばらしいことです。インドにも華麗な花がたくさんあったのでしょう。現代で は、四季を問わず色とりどりの花がありますから、時折々にすてきな花を選び、また 自分が作った庭に咲く一輪の花を捧げ、心のこもった供養をしましょう。(ちなみに花を選ぶ際、棘のあるものや毒々しいものは避けるべきと言われております。)

 

仏さまにお供えする物の中で、お花がいちばん純粋だと言われる方がありますが、それは、後で誰もお下がりを食べたりしないからだそうです。まごころを込めて仏さまに花を捧げ、朝に夕に仏壇に両手を合わせるとき、仏さまに捧げたその花の姿がそっと私たちの方に向けられている事を感じます。これは、まさに花回向です。

 

お花を捧げる花立ては、五具足(花立て一対・灯台一対・香炉一個)のときは、香炉を中央に、その左右に灯台、そして一番外側左右に花立てをおきます。三具足のときは、香炉を中央にして向かって右に灯台一個、左に花立て一個をおきます。花は長い月日をかけて育ち、開くことから、知恵を表わしているともいわれ、とりわけ青蓮華・紅蓮華・白蓮華・大白蓮華などは、『無量寿経』(上)において、極楽浄土の荘厳とも説かれています。花開くこと多ければそれがそのまま、極楽浄土に続くようです。

灯明(とうみょう)
お仏壇に、お灯明(おひかり)を上げるということは、単にみ仏のおいでになる場 所を明るくする供養の心のあらわれだけではありません。光はすべての暗黒をひらくという仏さまの偉大なる智慧の光、慈悲の光をたたえるという意味があります。さらにいえば、六波羅蜜の智慧行であり、根本無明、つまりいつも暗黒の迷いの世に生きている人間世界に真実の光をかかげるものといわれます。

 

灯明は、灯龍や燭台(ローソク立て)、または輪灯といって上から油皿の器具を吊した仏具によってかかげます。灯龍や輪灯はやむをえませんが、最近では燭台にまで豆電球を配し、スイッチーつでともる電気仕掛けになっているものがあります。しかしこれはあまり感心しません。仏さまのあかりは単なる照明ではなく、浄火をともすという意味があるからです。燭台には、なるべくローソクを用いたいものです。ローソクは、和蝋にこしたことはありません。点火してしばらくすると、炎が躍動するように揺れ、仏壇が華やいだ雰囲気になるからです。一般家庭では、ほとんどが普通の洋蝋を使用しています。消火のときは、真ちゅう製の香箸(こうばし)で芯をはさみ切って消すか、小型のうちわで消します。目で吹いて消すことは、つつしまねばなりません。

 

言うまでもありませんが、火の取り扱いには充分ご注意下さい。
特に和蝋は消したつもりでもまだ燻っている場合があります。消火は確実にご確認下さい。

霊供膳(りょうぐぜん)
飯食供養には、仏供、霊膳供、精進供の三つがあります。仏供とは仏器にご飯を盛って供えることで、日常、各家庭においてなされているお仏飯です。霊膳供とは、いわゆる霊供膳のことで、仏法僧の三宝に供養するものです。ですから、当然精進料理でなければなりません。この霊供膳は、仏具屋さんでは小型の本膳のような一式で売られています。
お膳の並べ方は私たちがお膳で頂くときと同じように、一番手前に箸、左手前にご飯のお椀、その右が汁、まん中に香の物、奥の左がなまもの、和え物などのお壷、その右が煮物などを盛るお平を置きます。お供えするときは、お膳を一回転させて箸を向こう側(仏さま側)になるようにします。
精進供というのは、蓬莱、乾物(山のもの、里のもの、海のもの)などを三方に盛って供養することです。さて、なぜこうした飯食を供養するのかと申しますと、

(1)報恩感謝の意から仏さまに奉って供養する。
(2)無縁に施す。
(3)自分が食事をするに当たってお初を供える。

といったことからです。

 

お供えする時間は正午までが良いのですが、今日の生活習慣の中では、それもまたむずかしいと思われます。要はお供えする側の心がけ、気持ちが一番犬切なことです。

木魚
わたしたちの宗派では読経や念仏を称える時に、拍子を整えるために木魚を打ちます。ときたま寺の玄関等で魚の形をした木製の吊りものを見ることがありますが、これを「魚板」といいます。木魚は、その魚板が変化したものです。魚は昼夜目を閉じることがないことから、「常に目覚めて精進せよ」ということで、その形を木に刻んで用いているのです。今、私たちの使っている木魚は一身に二つの龍頭を持ったものが多く、龍頭魚身は「魚化して龍となる」、の故事により「凡より聖に至る」の意味を表わしています。

 

木魚は中国で作られたものであり、日本で使われるようになったのは十七世紀(承応年間)に隠元禅師が中国から伝来したことに始まります。

木魚の打ち方は、普通、合打ちと言って、読経の時は字と字の間に打つようにします。これは木魚によってお経を濁らせることなく、正確に丁寧にお経を唱えるために合打ちをするのです。慣れないうちは頭打ちといい、どうしても字の頭に木魚を打ってしまいますが、初めはゆっくりとお経を唱え、合打ちをするよう心がけましょう。

 

木魚にも大小いろいろあり、静寂なお寺の本堂から聞こえる大木魚の音は人の心をおだやかにしてくれます。

数珠
数珠は私たちに最も身近な法具の一つであり、一般に広く普及しているものです。
しかし、仏さまを拝む時、なぜ数珠を手にかけるのでしょう。数珠は、百八個の珠をより糸でつないだもので、人間の持っている欲望や怒りやねたみなど百八のけがれた煩悩をお念仏を称えて断つために、手にかけるのです。また、お念仏を称えながら数珠を繰って、称えたお念仏の回数を計算するために用います。数珠の数は、百八を基本として、その半分の五十四、三分の一の三十六、四分の一の二十七個の珠をつないだものがあります。数珠の種類は宗派によって異なりますが、浄土宗系統では二連(輪違い)の数珠が多く用いられます。二連の数珠は、日課念仏用の繰り念珠です。なお在家用としては、一連の片手数珠が多く用いられています。

 

数珠を用いるときの注意として、畳の上に直接に置いたり、人に投げて渡すようなことは絶対にさけましょう。仏さまを扱うのと同じように、常に大切に扱うように心がけたいものです。

塔婆(とうば)
墓地には、板木の塔婆がたくさん建っています。これは故人を供養する心を込めた便りなのです。塔婆とは、梵語で塔を意味する「ストゥーパ」の音写で、漢字の卒塔婆を縮めたものです。

 

ストゥーパは、もともとインドでは仏舎利(釈迦の遺骨)を納めるためにつくられた仏塔で、釈迦の人滅後、舎利裕を建て供養したことに始まります。
古代インドでは土まんじゅう型(伏鉢)であったものが次第に変化し、三重塔や五重塔等になったりして発展しました。今日、塔婆といわれるものは、方・円・三角・半月・宝珠の五輪を重ねた石づくりの五輪塔を細長い本にかたどった角塔婆と、板にかたどった板塔婆に簡略化されたものがあります。
五輪は宇宙を構成する五つの要素(地・水・火・風・空)を表わします。人が亡くなると、この五大元素に肉体が還元されることを意味しているからです。

 

『無量寿経』には「起立場像」(塔や仏像を建てること)に功徳があるといわれます。インドでは、アショーカ王が仏舎利を分配し、全インドに八万四千の塔を建てたといわれます。

 

板塔婆は、水向けをしたりお経の一節を記して川に流したりすることから、「水塔婆」「経木塔婆」ともいいます。現在では、故人の追善供養のために経文・梵字・戒名等を書いて菩提を弔います。
塔婆は、墓前に供する追善供養の追塔で、塔婆そのものが仏の姿ですから功徳のあるものなのです。仏日などにしたためて、心を込めて読経回向したいものです。

※参考・引用文献:浄土宗西山深草派 発行「おつとめの心」